コシガールに生きる

日々の音楽、美術や映画鑑賞、そして食記録が中心です。

6/14 ゲリラの渋谷

 

偶然知ったSweet Wiliamくんと唾奇のゲリラライブ。

ゲリラとは思えない、安定感のある二人と、熱量の多いオーディエンス。

渋谷の街のど真ん中の講演で、みんなが手を挙げてスマホで映像を取りながらも大合唱になってるなんて、初めてだ...

彼らの演奏がすげぇのと、スマホが当たり前の世代にはスマホを持ち上げながら音楽を楽しむなんて朝飯前で、なんならスマホって彼/彼女らの身体の一部の感覚要素になってそうだってところに面白さを感じてしまった。

 

 

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6/9 死ぬ怖さと。

さて、しょっぱなからとんでもなく病的に感じるようなタイトルだけど(笑)、私は自分の存在がこの世界からなくなってしまうと考えるととんでもなく怖くなる。

いわゆる『死ぬのが怖い』というやつで、夜お布団に入って自分の感じるこの怖さに、押し殺されてしまいそうになることがある。

 

今日あった友達が自分の死が身近に感じた時の話をしてくれた。彼女は、家族が悲しむ光景が浮かんでつらくなったと言っていた。

その時に思い出したのは自分の母親が大病を宣告された日のこと。彼女もまた一番に、父親がさみしくなることを嘆いていたことを思い出した。

 

一方の『死ぬのが怖い』と恐れているにもかかわらず、いまのところ大病にも、事故にもあったことない健康体のがこの私なのだけれど、これから自分の死を身近に感じることが起こった時、何を思うのだろうと考えた。

間違いなく今まで通り自分の存在が消える怖さに怯えて、周りの人のことを考えられないんではないか。

もちろん前に挙げた彼女達も本当に心の中に思っていることと、言葉に出したことに気持ちに乖離はあるのかもしれない。だけれども私にはその言葉は出ないだろう。

 

さて死への怖さという話に戻ると、私も毎日毎晩恐れているわけではない。

何故かというと、自分の大事な友達や家族と話をした日の夜というは、怖さを忘れ、とても幸福な気持ちになるのだ。布団に入って、交わした言葉や話を思い返すと何故だか心満たされる。

そんな風に誰かと毎日会って、話をしていれば、怖さはなくなるのかもしれないけれど、そうにもいかない。

だけれども、もしかしたら、その日の出来事を言葉や思いを綴ることが自分と話をした日となり、布団の中の人との思い返す時間や言葉たちのように、自分自身との振り返りで心への戻りがあるかもしれない、と思い始めたのだ。

 

そして偶然にもこのタイミングで自分の幾人かの大事な友人からブログを書くことを勧められた。何度も3日坊主であきらめてばかりだけれど、これは書きはじめてみるしかないだろう。

 

しょっぱなから死への怖さなんぞ書いたけれど、これからはどちらかというと見たアートや、聞いた音楽、そして食べた食事なんかを主軸にそれを言葉にして見る、実験の始まり。私の死ぬこわさはどうなるのかな。